平山牛舗物語

私の主人、三代目社長の父である平山保明さんの思いを伝えます。
昭和5年より、まず「平山商店」が誕生しました。
店のそばに家蓄市場・保健所があり但馬牛を仕入れに全国から人が寄っ
てきていました。
そのため、当時は食堂もやっていました。
お父さんは、6年間の修行を経て21歳の時に養父市場に帰ってきました。
当時は、昭和31年頃です。
当時は、牛一頭丸ごと汽車に乗せて売買が成立した時代です。
ですので、お父さんは三輪車を購入して牛運びをしたり、今で言う
和田山( わだやま) 食肉公社( 解体処理場) へ、牛を積んで行き資金をためていったそうです。
ちなみに一頭、駅まで運んで50円の儲けだったそうです。
時代的にも、まだまだ牛肉の需要は低く、牛の油をたいてヘッドとして都会の業者に売ったり、
牛革も高値で売れたそうです。
しかし時代とともに牛肉の需要は増えることはわかっていたので、但馬においていない牛を
育て食べてもらうことを考えていました。
多分ご存知ないかもしれないのでここで一言。
但馬牛は、他の牛と比べて大きくなりません。骨は細いので、全体の重量をみますと、歩留
まりは66%です。
他の牛は50%の骨太だそうです。気質は割合おとなしいそうです。
・・・・私ににている。
良い牛肉は、子牛のときの餌の与え方が重要だそうで。なんだか、子育てでもないけれど
人間にもあてはまる気がします。
守り続けた食の安全
本格的に店らしくなってきたのは昭和36 年頃です。
なぜかと言うと、まだまだどこにもおいていない「ドイツ製真空包装機」を買って、
牛肉の納め方を効率よく日持ちするよう、また相手が扱いやすいようにと何百万も
する機械を購入したわけです。
お父さんは、平山商店を「平山精肉店」へそして平山精肉店を「平山牛舗」へ
ただいま三代目へ継承引継ぎ中です。勿論、わが社の男性社員はお父さんには、
まだまだ及びませんが皆一生懸命、捌き( さばき) を覚えスジを引きしゃぶしゃぶ、
焼肉、すきやき、ステーキへと切りそろえることができます。
解体処理へも足を運び内臓( ホルモン) をあらい体と目と手で関わり、持ち帰る
までずーーっと一緒です。
これは、商品を提供する側において自信を持って売れる強みです。
皆、毎日作業工程の中でお客さまの「おいしかった」と言う言葉がいただける
ように一頭づつ牛が違うので、毎回いつも考えながら商品をつくりだしています。